未完ならまだ良い


 たとえ、D.C.の記号があったとしても、フェルマータだってないのだから終わった訳ではないだろう?

 ふいにそんな事が浮かんだ午後。

 遠目からも良く映える真っ赤なスーツ。前髪をどこかユーモラスに揺らしたおデコくんが、自転車を立ち漕ぎしながらやってくる。上下に揺れる身体と、左右に揺れる髪。何かに似ているなぁと思い、ああそうだ。メトロノームに似ていると思う。
 刻むリズムが一定で、なんだか可笑しかった。

「何笑ってるんですか、牙琉検事。」
 むうと不機嫌そうな顔をする王泥喜に、くくっと響也は笑った。
「失礼。ただの思い出し笑いだ。」
「異議あり。あからさまに、俺の顔を見て笑ってました。」
「悪かった、認める。」
  片手を上げて宣言してやると、ふんと鼻の穴を大きく広げて満足そうな表情になった。その顔がまた可笑しくてクスクスと笑う。
「ところで、こんな場所で何してるんですか?」 
「ああ、ちょっと探し物を…ね。」
 歯切れの悪さに、王泥喜が眉を顰めるのが見える。何せ、額は全開だ。眉間の皺までしっかりくっきりよく見える。
 そのまま言葉を濁そうとすると、食い下がってくる。しつこいのは余り好きは方ではないが、どうも彼に対しては違うと響也は思う。 
 太々しいようで、真摯な態度は時々視線を奪われるほどの強さを見せる。何故そこに惹かれるのか…はよくわからないが、キャリアを差し引いても、頭が下がる部分が、確かにそこにはあった。
 ふと溜息を洩らして、響也は楽譜をなくしたのだと告げた。手帳に挟んでおいた自作の品だ。日の目を見る事はなかったが、なんとく肌身離さず持っていたもの。
「バンドはやめたんだから、未練がましいかな…とも思ってもみた「乗って下さい。」」
 黙って話を聞いていた王泥喜は、クルリと自転車を反転させた。
「来た道を戻ってみましょう。急いで行けば、絶対あります。」
 断言する顔はまるで法廷で顔を合わせているようで、真剣そのもの。躊躇う響也の腕を引いた。
「行きましょう。まだ、なくなったと決まった訳じゃないでしょ。」
 強引さに折れて、乗ってはみたが、はたと気付く。
「おデコくん、これ道交法違反…!」
「知ってます!」
 ペダルを漕ぐ足は緩めずに、しれっとそんな事を言ってのける。こういう図々しさは、彼が弁護士であることを再確認させてくれる。
「あ、でも。」
 王泥喜は、そこで言葉を切った。こうして背中にしがみついているから表情は読めないけれど、案外にまりと笑ったのかもしれない。それは次の台詞で充分に予測出来た。
「牙琉検事も共犯ですから!」
「僕まで巻き込むのか!?」
 呆れた声に、はいと素直な返事が戻ってくる。その態度に、響也も観念して、王泥喜の身体にしっかりと腕を回した。そうでもしないと、ペダルがやけに力強く漕がれているせいか、自転車から弾き飛ばされそうになるのだ。
 しかし、一瞬、王泥喜の息が詰まる感じがして、響也は彼に問い掛ける。
「すまない。苦しかったかい?」
「いいえ、大丈夫ですから。」
 返ってきた声は、やけに甲高く掠れたものだった。

 立ち寄った公園もベンチの上にそれはあった。親切にも石が乗せられて、風にはたはたと揺れている。
「ほら、あったじゃないですか。」
「ああ。ありがとう。」
 古く黄ばんだ紙の上には、拙い音符が並んでいる。単純ミスか奏法に関する音符も幾つか間違っている。
 ぶっと吹き出すと、王泥喜が不思議そうな顔で覗き込んできた。
「何か面白い事が書いてあるんですか?」
「いや、ここでね。D.C.ってのを使ってるんだけど、これは(楽譜の最初に戻る)って意味なんだ。けどこれじゃあ、永遠に演奏が終わらない。」
「へ、へぇ〜。」
 王泥喜の広い額には一体それは何事ですかと記してあって、響也の笑いを誘う。

 最初に戻る。まるで、様々なものを失ってしまった自分のようではないかと響也は思う。それでも…。
「終わってないか。」
 ぽつりと呟いた言葉には、王泥喜も何か感じるものがあったらしく、神妙な表情になった。腕を組みなにやら思案していたらしい王泥喜が顔を上げる。
「終わっちゃってないのなら…いいです。」
 しかし、王泥喜の呟いた言葉には、意図するものが読めずに、響也は首を傾げた。
「何の事だい?」
「こっちの話です。」
 にこりと、何処か腹黒さを感じる笑顔を見せられて響也はふうと溜息をつく。
「お礼を言おうかと思ったんだが、止めておこうかな。」
「言葉はいいんで、別のものでお願いします。」
「おデコくん…君ねぇ…。」
 響也は、そう良いながらこの弁護士の顔を凝視した。彼に対する印象はどんどんと変わっていく。ひょっとしたら、彼と自分の関係もまた最初に戻り、そして変化していくそんな関係なのかもしれない。
 既に固定されてしまったものではない。そう思うと、自然に笑みが浮かぶのが不思議だった。
「…で?何が知りたいの?」
 待ってましたとばかりに笑った王泥喜に、少しだけ苦笑が漏れた。




だいだい、クラシック以外でも普通に使うのか…とか全くわかりまへん。



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